戦争を体験した世代がいなくなってしまったら、語り継いでいくのは戦後世代の私たち

1945年8月15日-敗戦の日。それから30年以上の月日が流れた70年代後半に私は生を受け、「戦争なんて昔のこと」「自分とは関係がない」そう当たり前のように思って過ごしてきました。

■ 知らなかった自国の歴史

1945年8月15日-敗戦の日。

それから30年以上の月日が流れた70年代後半に私は生を受け、「戦争なんて昔のこと」「自分とは関係がない」そう当たり前のように思って過ごしてきました。しかし、ある体験がきっかけでそう思えなくなった自分が今はいます。戦争を心に刻むことは、過去の継承に留まらず、未来志向の行為でもあると思うのです。

そもそも私が「戦争」と向き合い、「日本人」として何かしたい...。こう思うようになるとは想像もしていませんでした。年号の暗記ばかりの勉強が苦手で、歴史の成績はさほどよくありませんでした。

歴史を単なる出来事として学んでいくことは、人によっては自分と距離を置いたり、壁を作ったりしてしまうのかもしれません。そのような教育を受けた私にとって、歴史を自分の事として捉えていたドイツ人の女子高生との出会いは衝撃でした。

「私はドイツ人だと思われたくない。かつてナチスがやったことを思うと...」

そう言って、彼女は言葉を詰まらせました。

高校時代に、留学先のイギリスで聞いたクラスメートの言葉です。自国の歴史を自分に重ねて考えたことなんて一度もなかった私は、同世代なのになぜ感覚がこれほどまでに違うのかと不思議でした。

■ 戦争被害者との出会い

それから数年後、大学生になった私は自国の歴史を「自分のこと」として捉えてみたかったこともあり、「戦争の傷跡がどこまで深いのか知りたい」と、雨宮剛・青山学院大学現名誉教授が主宰していたフィリピン体験学習に参加しました。

元日本兵のビデオメッセージを見るフィリピン人戦争体験者

この3週間のツアーで、たくさんの戦争被害者と向き合うことになります。

「日本人なんか見たくなかったのに何であんたたちはフィリピンに来たんだい!」

ツアー参加者の私たち大学生7人に、泣きながら詰め寄ってくる女性もいました。新婚当時、夫を日本兵に連行されてしまった方でした。他にも、自分の父親を含む家族10数名が目の前で日本兵に殺された方など、遺族から心の内を吐露され、正直打ちのめされそうでした。日本から一歩外に出ると、「過去の戦争と私は関係がない」では通用しないこともあるのだと痛感しました。後の訪問時に、フィリピン人被害者から「日本の若い人達にもフィリピンで何が起きたか、もっと知ってもらいたい」と言われたこともあります。

■ 加害側の心の傷

フィリピン訪問から3年後。新潟県の住職から、戦時中に犯した行為を、悔やみながら亡くなった元日本兵の話を伺いました。言葉を失うほど動揺しました。

元日本兵の取材

被害者のみならず、加害者にも深い深い心の傷を戦争は残す。そう初めて知った瞬間でした。そのことがきっかけとなり、日本とフィリピンの戦争体験者の証言をビデオに収録し、日比両国で上映する事で双方をつなぐ懸け橋になれればと2004年にブリッジ・フォー・ピースを立ち上げました。現在は、「過去の戦争を知り、未来のかたちを考えるきっかけをつくる」ことをミッションに掲げ、撮りためた約300名の証言を用いたワークショップを開催しながら、フィリピンのみならず戦争の爪跡の残るアジア諸国との交流を行っています。

■ 未来への責任

「戦後世代が、過去の戦争に対して責任を負うべきか」という議論がありますが、前述した通り、国際社会、特に被害国においてはそこから逃れることなど出来ないし、少なくとも「未来への責任」は私たちにあるのではないでしょうか。

戦争体験者への取材を通し、戦争になると一体どういう状況に陥るのか、少し見えてくるようになりました。「紳士が鬼になる」「いったん戦争への道を歩み始めると、反対など出来るものじゃない。反対すれば、家族が酷い目にあう」「戦争は殺すか、殺されるか」「戦争以外の手段を。話し合いで解決してほしい」「同じ体験をもう誰にもさせたくない」。これは多くの元日本兵から直接聞いた言葉です。彼らの体験に学ぶことが出来るのです。

私に戦争体験はありませんが、直接体験を継承できる最後の世代と言えるかもしれません。自分の子ども達に「なぜ聞いておかなかったのか」と言われてしまわないためにも、そしてこれからの「未来」の舵取りを誤まらないためにも、きちんと過去に向き合う必要があると思います。

戦争を体験した世代がいなくなってしまったら、語り継いでいくのは戦後世代の私たち。戦後69年目の今年、終戦時20歳だった方でも89歳。30歳だった方は99歳です。残された時間は限られています。

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